2011年12月09日

14号/11月 「主は生きておられる」

《婦人たちの熱意》
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
(ルカによる福音書第二四章五ー六節)
 イエス様を葬るために墓に向かった婦人たち。でも彼女たちが向かったのとは正反対のところにイエス様はおられました。死ではない。主イエスは生きておられるのであります。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」これが私どもの行き方です。十字架を思う。死を思う。悲しみ。苦しみを思う。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」これが聖書が告げる、私どもが進むべき、見るべき方向なのです。
 婦人たちが、こんなにも朝早く墓へと行った熱意について、ある人は大きな信仰に満ちた愛だが、それはまた、死ぬということに立ち向かう熱意だと書いていました。高価な香料を愛する主イエスのご遺体に塗ること。死ぬと言うことが、私どもの肉体にもたらすこと。それを少しでも妨げる。それに少しでも抵抗して香りを加える行為でありました。しかしそれが、すべての人間の歩む道の終わり。信仰深い人々のささげる愛。私どもも持つ同じ熱意である。そしてそれが、死ぬということに対する、私ども人間に、最後に出来ることだと、この人は言うのです。そのように私どもは何百万ものお墓に、悲しみと愛とを持って向かうのであると。
 しかし今日、私どもに示されたキリストの出来事は、それら墓へと向かう私どもの歩みを、全然違うものに変えてしまう出来事です。ここにおいて私どもの死が打ち破られる。墓に向かった婦人たちは、信仰の仲間たち、兄弟たちのもとへと戻るのであります。

《かたつむり》
 浦賀教会ブログサイトの背景がずっとかたつむりの絵になっていること。ペンネームもかたつむりになっていること。ちょっといたずら心を持って待っていましたが、その意味を問われることはありませんでした。かたつむりには復活の意味があります。殻から出てくるからです。かつて私が暮らしていた町のすぐそばにニュルンベルクという大きな町がありました。その町の教会には、町で大きな働きをした人の金属作りの大きな棺が置かれていたのですが、その棺の足台がかたつむりで、その教会のシンボルになっていたのです。人々はこれを復活のシンボルとして、復活の希望に生きたのです。
 イースターには卵が用意されます。玄関のところに、ささやかな卵の飾りを飾りました。卵も、殻を打ち破って出てくる。復活のしるしであります。また泉が卵で飾られることもお話ししました。泉は生命の水をあらわしているのです。私どもに、殻を打ち破り、復活の信仰に生きるべきことを示すシンボルとなっているのです。

《震災の中でのメッセージ》
 私どもの国は想像も出来なかったような大きな災害を経験致しました。おそらく小学校の先生の言葉だと思います。これにこころひかれたのです。
「四月から別の学校へ転任が決まった女性教諭は子供たちに語り掛けた。『地震でたくさんのものを失いました。大切な人、おうち、思い出の品。でも優しい心、大切な気持ちはなくなりません』
 被災地の人たちは本当に多くのものを失った。それでも笑顔を絶やさず、新しい宝物を見つけ出そうとする子供たちがいる。長く困難な道かもしれないが、復興に向かう被災地を見つめていきたい。子供たちが教えてくれた大事な何かを、ずっとなくさないように。」
 ローマ・カトリック教会の教皇が、日本の女の子の質問に答えたニュースをお聞きになった方もあると思います。もう少し正確に知りたいと思い、実際の録音と英字新聞の記事を見つけて調べてみたのです。女の子は問うのです。「私は知りたいんです。どうして私はこんなに怖がらなくてはならないんでしょうか?どうして子供たちがこんなに悲しまなくてはならないのでしょうか?」
 これに対して教皇も同じ問いを持ったと言います。「私たちにはその答えはわかりません。でもイエス様も何の罪も犯していないのに、あなたと同じように苦しまれたこと。イエス様において明らかにされた、まことの神様があなたのそばにいてくださるということを、私たちは知っています。」これは主にある信仰者の真実な答えだと思いました。
 インターネットで知るにつけ、神は正しいのか?との言葉を発している牧師さえいるのです。それらの言葉が正しいか、正しくないかなどと言う気はありません。でも、キリスト者として、説教者として、まことの言葉はどこにあるかと考えます。二〇〇〇年間にわたり、多くの戦争、多くの災害、その中で命がけで語り続けた人々を思うのです。もうひとつぜひ紹介したいのは、今、一番読まれている、私どもも用いますハイデルベルク信仰問答を翻訳された、日本キリスト改革派教会、仙台教会、吉田隆先生の、大会議長としてのメッセージです。
「生も死も、すべては主の御手の中にあるとの信仰に堅く立ち続けることができますように、お祈りください。とりわけ甚大な被害をこうむった地にある諸教会のために、お祈りください。今この時も、何とかして一人でも多くの命を救おうと昼夜を分かたず懸命の努力を続けている人々のために(命が失われることは主の御心ではないが故に)お祈りください。そして、生き残ることを許された私たちが、この命をいよいよ主と隣人のために用いることができますように祈ってまいりましょう。」

《主は生きておられる》
 命がけでキリスト者が告げた、私どもの生き死にを超えたメッセージ。それが「主は生きておられる」であります。そしてそれはまた、今起きている災害の中でも告げられるメッセージです。
 婦人たちが、明け方早くに墓に行ったのは、十字架にかけられ、亡くなられ、墓におさめられたイエス様の葬りのためでした。香料を持って行ったのは、イエス様の遺体に香料を塗るため。前日が安息日で、それが禁じられていたからです。
しかし墓は空でした。婦人たちは途方に暮れたと記されています。その時、婦人たちに告げられた言葉が最初に挙げた天使の言葉だったのです。婦人たちは他の人々に知らせます。信じられない弟子たちもいました。墓へと走って行った弟子もいました。もうしばらくの時を、弟子たちは必要としたのです。
 私どもの国は大きな痛手を受けました。しかし「主は生きておられる」。私どもの悲しみ、私どもの悩み苦しみを超えて「主は生きておられる」。主ご自身が、死の苦しみと戦われた。悲しみ悩みと戦われた。主は生きておられ、私どもと共にいてくださるのであります。
 被災地において今この時礼拝が守られ、御言葉が語られ、祈りがささげられているのです。一人でも多くの命が守られることを。そして私どもに出来ることが神さまによって示されますように。
(四月二四日イースター聖餐礼拝説教)
posted by かたつむり at 21:24| きぼう14号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

14号/11月 引用した文章について

カトリック教会のテレビ番組から
『【ローマ共同】ローマ法王ベネディクト一六世は二二日に放送された国営イタリア放送協会(RAI)のカトリック教徒向けのテレビ番組で、東日本大震災に関する千葉市の七歳の少女の「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか」という質問に、「答えはないかもしれませんが、大切なのは神があなた方のそばにいるということです」と答えた。法王がテレビで一般の視聴者からの質問に答えるという初の試み。多数の応募の中から七人の質問者が選ばれ、そのうちの一人が日本人の少女だった。関係者によると、千葉市美浜区在住の松木エレナさん。父親がイタリア人で母親が日本人。エレナさんはビデオレターの中で「同じ年頃の子どもがたくさん亡くなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか、ポープ(英語で法王の意)、教えてください」と日本語で質問した。』

 女の子の質問
「私はとても怖かった。安全だと思っていた家が本当にすごく揺れて、私と同じ年頃の子供たちがたくさん亡くなりました。私は公園に行って遊べません。私は知りたいんです。どうして私はこんなに怖がらなくてはならないんでしょうか?どうして子供たちがこんなに悲しまなくてはならないのでしょうか?」

 教皇の答え
「私も同じ問いを持ちました。どうしてこんなことが?と。他の人たちが安らかに生活しているのに、どうしてあなたがこんなに苦しまなければならないのか?と。そして私たちにはその答えはわかりません。でもイエス様も何の罪も犯していないのに、あなたと同じように苦しまれたこと。イエス様において明らかにされた、まことの神様があなたのそばにいてくださるということを、私たちは知っています。」
(ビデオとガーディアン紙からの再構成)


日本キリスト改革派教会大会議長
仙台教会吉田隆先生のメッセージ
「同じ主にある教会でありながら、太平洋沿岸における甚大な津波被害の故に全く消息のわからない諸教会や兄弟姉妹たち、そして無数の犠牲者のことを思うにつけ、胸の裂ける思いです。
 未だ被害の全貌は不明です。不自由な生活を長期にわたり覚悟せねばなりません。かなり大きな余震の可能性もあります。原発事故による目に見えない二次的被害は計りしれません。
 「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編四六編三ー四節)という出来事が比喩ではなく事実として立ちはだかった時、さらには詩人には思いも及ばなかった放射能の拡散という異常事態に直面している時に、依然として「神はわたしたちの避けどころ…わたしたちは決して恐れない」(同四六・二ー三)と告白できるか。私たちはその信仰の試練に立たされています。
 生も死も、すべては主の御手の中にあるとの信仰に堅く立ち続けることができますように、お祈りください。とりわけ甚大な被害をこうむった地にある諸教会のために、お祈りください。今この時も、何とかして一人でも多くの命を救おうと昼夜を分かたず懸命の努力を続けている人々のために(命が失われることは主の御心ではないが故に)お祈りください。そして、生き残ることを許された私たちが、この命をいよいよ主と隣人のために用いることができますように祈ってまいりましょう。
 私たちの父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和が、皆様方と共にありますように。
主の二〇一一年三月一四日  大会議長 吉田隆(仙台教会牧師)」
posted by かたつむり at 21:22| きぼう14号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

13号/3月 説教「安息日の主の言葉」

《礼拝する私ども》
 大きな災害がありました。なお地震は続き、私どもの町も注意報の中に置かれています。私どもの信仰が問われる時だと思います。インターネットを通じて、仲間の牧師たちがその安否と現地の状況を知らせてくれています。多くの人の命が奪われています。でもそんな中、彼らが記していたこと。それは明日の、つまり今日の礼拝だけはということでした。今日、私ども自身も、現地に及びもつかないながら、自らも地震と津波のことに心を配りながら、なお私どもの教会に集い礼拝を守っています。災害のまなかにある方々も、今、時をまったく同じにして、礼拝を守っているのです。神さまの前に立ち、神さまを賛美し祈っています。
 被災の中にある多くの方々。なぜこのような災害が。なぜこのような大きな被害が。なぜ多くの人々の命が。なぜ愛する私の家族が。その思いは、私どもも抱くものであります。現地の先生方、信徒の方々、そして私ども、今、共に礼拝の中で御言葉を求め、祈っています。
 ちょうど一年前にここで語り、また偶然にも神戸の震災直後、私の出身教会に説教者として呼ばれた時のことを思い出さないではいられません。神戸から遠くないとはいえ、被害を免れ、しかし暗くなってしまった礼拝堂で、私どもの良く知る「アーメン」の語について語ったのです。その際紹介した震災直後の新聞記事で、私どものかけがえのない生活と命とについて記し。それを一瞬のうちに停止させ、打ち砕いてしまう力の恐ろしさと言って、「まったく、不条理としか言いようがない」▼「一夜にして、すべて灰燼に帰した。…この世の無常を感じさせた」と記していたのです。条理とは物事の筋道が通っている意味の言葉だそうです。しかしそれが通っておらず、この世界は無常だと告げるのです。
 この言葉に対峙しますと、私どもは正反対のところに立っています。神さまの示された道、この世は無常で筋道が通っていないという声に逆らい、神さまが導いて下さる道に立っているからです。
 今、改めて、祈祷会において信仰問答を学んでいます。昨年の礼拝の中でも味わった、その最後の言葉が「アーメン」でした。不条理。無常という、この世界の声。しかしそうではない。「わたしたちは、あらゆる不遇の中においても、忍耐深くあるのです。幸福の中にあってはそれに感謝し、未来のことについては、父なる神様に、よく信頼する。そして、もはや、いかなる被造物も、わたしたちを、神の愛から、離れさせることはできないようになる。」災いも、何によってさえも、イエス・キリストとともにある人生を送る人は、神様の愛から離れることはあり得ない。それが人間を支える慰めとなる、それが「アーメン」でした。

 《礼拝の中で》
 条理の条という字は、枝の先の末端のことを意味する言葉だそうです。つまり不条理とは枝の先々がうまくつながっていない意味なのです。不思議に思いました。私どもはキリストという木の枝であると自らを言いあらわしているからです。そしてその枝が先々までつながり、決してキリストから切り離されないと信じます。大きな災害に心を配りつつも、私どもが礼拝に集うのは、だからだと思います。イエス様が礼拝に来ておられる。そして共に祈って下さっている。
 今、イエス様御自身が、安息日の礼拝の中でお語りになっておられたのです。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
(ルカによる福音書第一三章一一節)
 この女性は一八年間、ひたすら礼拝に出て、神さまに祈り、助けを求めていたに違いないのです。まわりの人は同情したでしょうか。治るはずがないと思っていたかもしれません。礼拝堂の片隅で、目につきにくい、誰も気にかけなかったかもしれません。しかし、イエス様はその女性をご覧になりました。そしておよび寄せになり声をおかけになります。「婦人よ、病気は治った」と。「病気」とは弱さを言う語であります。そして「治った」は解き放たれたという語であります。人間の弱さから病から、イエス様が解き放って下さるのであります。これほどの力、喜びはありません。女性は、たちどころに腰がまっすぐになり、神さまを賛美した。そう記されている通りです。

 《一八年間も苦しんでいたのに》
 ゴルヴィツァー先生が次のように記しています。この女性にはイエス様は見えなかったかもしれない。彼女から願いの声は出されなかった。もしかしたらそれは会堂長の考えに沿ってだったかもしれない。「癒されるのは明日以降。」その日に自分がいやされることは決してない。そういう毎週の礼拝であったのです。「しかしイエス様が動いて下さる。御言葉の力を通して。それだけで十分であるのに。この女性の上に手を置いて下さる…ただちに発せられた神さまに向けられた賛美の言葉は…イエス様の御業に対してもっともふさわしいものであっただろう。」

 《まことの礼拝》
 礼拝には必ずしも喜びだけがあったわけではなかったのです。その場を取り仕切る会堂長が文句を言います。いやす仕事に働く日は六日あるではないかと。今日は安息日だ。休まなければいけないと。この会堂長と群衆に対して、イエス様は、「偽善者たちよ」とお答えになります。
この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。(同一六節)
 ここを「安息日だからこそ」と訳して良いそうです。安息日だからこそ、一八年もの病の束縛から解いてやるべきではなかったのか。「安息日は神さまに栄光を帰す日。病に、縄目にしばられている人を放つ日なのである!」
 だからこそ、この聖書箇所が悪用される危険を指摘しないではいられません。安息日に癒しをが、いつしか安息日である主の日に、癒しを必要としている人がいるなら、礼拝に行くひまなどないとの誤った主張です。被災地にある牧師たちが、今日の礼拝のため心をくだいていることを思い起こしていただきたいのです。礼拝でイエス様はお語りになります。この癒された女性が神さまを賛美したのも礼拝です。御言葉を悪用し礼拝をおろそかにすることは許されません。

 《祈りをともに》
 加藤常昭先生が今日の聖書箇所でおっしゃっています。「主イエスはただこの人だけを救うためにここにおられるのではない。礼拝全体を、安息日の礼拝全体を救い取るためにここにいてくださるのです。救われるべき者は、この女性であるよりも、むしろ会堂司であり、会衆でありました」(講解説教ルカ3一五二頁)。
 祈りを共にしたいと願います。被災地において今この時礼拝が守られ、御言葉が語られ、祈りがささげられているのです。一人でも多くの命が守られることを。そして私どもに出来ることが神さまによって示されますように。
 (二〇一一年三月一三日主日礼拝説教)
posted by かたつむり at 21:05| きぼう13号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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