2018年06月08日

18号/2018年6月 「見よ、神の小羊だ」

《二人のヨハネ》
 ヨハネによる福音書にはヨハネという名前の二人の人が出てきます。一人は洗礼者ヨハネ。もう一人はこの福音書の名前となっているヨハネです。二人の生き方はまったく違いましたし、年も離れているようです。ですがキリストの信仰に生きたこと、何よりも主イエス・キリストを自分の生涯をもって全力で指し示したことは寸分違わずまったく同じだったのです。

《洗礼者ヨハネ》
 洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていた人ですから洗礼者と呼ばれるのです。けれども、その洗礼はわたしたちの教会で行われる洗礼とは別物です。この人は人々に罪を告白して悔い改めの洗礼を受けるよう求めていたのです。自分には罪はないと主張する人々を厳しくいさめたのでした。何よりも洗礼者ヨハネはイエスというお方をこの人こそ救い主であると証言しました。冒頭の「見よ、神の小羊だ」との言葉がイエス様のことを指し示した言葉です。小羊とはユダヤの人たちが神殿で犠牲にささげる小羊のことです。この人イエス様こそ、神様から遣わされ、人々のために十字架にかけられ犠牲となられるお方である。そう言い表したのです。

《福音書記者ヨハネ》
 二人のヨハネと言いました。この書物がヨハネによる福音書となってもいるのですが、それにもかかわらず、実はもうひとりのヨハネは、ヨハネという名前でこの福音書には出てきません。名前のない弟子のひとりとして出てくるのです。ただ探して見ていただければと思うのですが、イエス様の愛しておられた弟子と呼ばれて出てきます。そしてこれは言い伝えなのですが、そのイエス様の愛された弟子こそがヨハネであり、この福音書を書いた人であると言われているのです。あの最後の晩餐の場面でもイエス様のすぐそばにいます。いくつもある最後の晩餐の絵の中で探しでご覧になると興味深いと思います。いつもそばにおり、時にイエス様によりかかるようにしている、イエス様から愛された弟子だったのです。 福音書のさいごのところにも、このイエス様の愛された弟子が、この福音書を書いたとも記されています。イエス様のすぐそばにいて、そしてイエス様が十字架にかけられ、亡くなられ、葬られ、復活された後も、この弟子はイエス様の出来事を宣べ伝える、そういう生き方をしたのです。

《召命》
 ベルーフ(Beruf)という職業という意味のドイツ語の言葉をお聞きになった方もおられるかと思います。雑誌の名前などで日本語にもなっている言葉です。この言葉の動詞形はドイツ語のベルーフェン(berufen)で、ルーフェン(rufen)が呼ぶという言葉ですから、呼び招くという意味になるのですが、ドイツでは神様から使命を与えられる、というとても厳粛な意味を持った言葉になっています。それはさらに信仰的な意味では召命という言葉ともなります。その言葉の名詞の形がベルーフで、職業を意味する言葉なのです。それはつまり私たちの職業というのは神様から召されたもの、使命を与えられたものである、というとても強い意味を持っているのです。
 二人のヨハネはまさにベルーフを与えられました。神様から使命を与えられ、それぞれの生涯を生きたのです。聖書の中、キリストの信仰者の二人ですが、この二人が、神の召命に応え、生涯のベルーフとして、信仰の歩みを決意したのです。特に若いみなさんにも生涯のベルーフ/職業/召命が与えられることをお祈りします。なんどかお話ししたことですが、是非、人との出会いがあって欲しい。人生を決定づけるような人生の出会いをして欲しい。そしてできるならば、キリスト教主義の学校にあって、よそではなかなかできない、キリスト者との出会いを経験していただければと願うのです。

《二人の生涯のおわり》
 二人はどのような人生の終わりを迎えたか。これもまったく異なります。洗礼者ヨハネは、福音書に記され、またサロメの物語でも良く知られていますとおり、時の権力者ヘロデ王の不誠実な結婚について批判をしたために、結果的にではありますが、王に殺されてしまったのです。殉教の死です。
 一方のヨハネも、一説には同じように権力者から殺されたという言い伝えもありますが、他方、殉教の死をとげることなく生きることができたという言い伝えもあるのです。この人には伝説がいくつもあるのですが、最後に、そのひとつを紹介したいと思います。
 高齢になったヨハネはもう自分の力では歩けなくなっていました。人々にかつがれてキリスト教会の礼拝に集って来た人たちの前に連れてこられるのです。そして言葉を語りました。しかしその語る言葉はいつもひとつだったと言うのです。その言葉とは「神は愛です」です。ご存じのように、ヨハネによる手紙一第四章一六節にある有名な言葉です。キリストの信仰をひとことで言い表したようなこの言葉をひとこと、その晩年、ヨハネは繰り返し語ったのだと言うのです。激しくも荒々しくその短い生涯を通じてキリストを証しした洗礼者ヨハネと、長く生き、その最期まで、「神は愛です」と語り続けたイエスの愛した弟子ヨハネ。その生き方は対照的なほどでしたが、イエス・キリストを指し示したことにおいては寸分違わず同じであったのです。
posted by かたつむり at 18:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月09日

14号/11月 「主は生きておられる」

《婦人たちの熱意》
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
(ルカによる福音書第二四章五ー六節)
 イエス様を葬るために墓に向かった婦人たち。でも彼女たちが向かったのとは正反対のところにイエス様はおられました。死ではない。主イエスは生きておられるのであります。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」これが私どもの行き方です。十字架を思う。死を思う。悲しみ。苦しみを思う。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」これが聖書が告げる、私どもが進むべき、見るべき方向なのです。
 婦人たちが、こんなにも朝早く墓へと行った熱意について、ある人は大きな信仰に満ちた愛だが、それはまた、死ぬということに立ち向かう熱意だと書いていました。高価な香料を愛する主イエスのご遺体に塗ること。死ぬと言うことが、私どもの肉体にもたらすこと。それを少しでも妨げる。それに少しでも抵抗して香りを加える行為でありました。しかしそれが、すべての人間の歩む道の終わり。信仰深い人々のささげる愛。私どもも持つ同じ熱意である。そしてそれが、死ぬということに対する、私ども人間に、最後に出来ることだと、この人は言うのです。そのように私どもは何百万ものお墓に、悲しみと愛とを持って向かうのであると。
 しかし今日、私どもに示されたキリストの出来事は、それら墓へと向かう私どもの歩みを、全然違うものに変えてしまう出来事です。ここにおいて私どもの死が打ち破られる。墓に向かった婦人たちは、信仰の仲間たち、兄弟たちのもとへと戻るのであります。

《かたつむり》
 浦賀教会ブログサイトの背景がずっとかたつむりの絵になっていること。ペンネームもかたつむりになっていること。ちょっといたずら心を持って待っていましたが、その意味を問われることはありませんでした。かたつむりには復活の意味があります。殻から出てくるからです。かつて私が暮らしていた町のすぐそばにニュルンベルクという大きな町がありました。その町の教会には、町で大きな働きをした人の金属作りの大きな棺が置かれていたのですが、その棺の足台がかたつむりで、その教会のシンボルになっていたのです。人々はこれを復活のシンボルとして、復活の希望に生きたのです。
 イースターには卵が用意されます。玄関のところに、ささやかな卵の飾りを飾りました。卵も、殻を打ち破って出てくる。復活のしるしであります。また泉が卵で飾られることもお話ししました。泉は生命の水をあらわしているのです。私どもに、殻を打ち破り、復活の信仰に生きるべきことを示すシンボルとなっているのです。

《震災の中でのメッセージ》
 私どもの国は想像も出来なかったような大きな災害を経験致しました。おそらく小学校の先生の言葉だと思います。これにこころひかれたのです。
「四月から別の学校へ転任が決まった女性教諭は子供たちに語り掛けた。『地震でたくさんのものを失いました。大切な人、おうち、思い出の品。でも優しい心、大切な気持ちはなくなりません』
 被災地の人たちは本当に多くのものを失った。それでも笑顔を絶やさず、新しい宝物を見つけ出そうとする子供たちがいる。長く困難な道かもしれないが、復興に向かう被災地を見つめていきたい。子供たちが教えてくれた大事な何かを、ずっとなくさないように。」
 ローマ・カトリック教会の教皇が、日本の女の子の質問に答えたニュースをお聞きになった方もあると思います。もう少し正確に知りたいと思い、実際の録音と英字新聞の記事を見つけて調べてみたのです。女の子は問うのです。「私は知りたいんです。どうして私はこんなに怖がらなくてはならないんでしょうか?どうして子供たちがこんなに悲しまなくてはならないのでしょうか?」
 これに対して教皇も同じ問いを持ったと言います。「私たちにはその答えはわかりません。でもイエス様も何の罪も犯していないのに、あなたと同じように苦しまれたこと。イエス様において明らかにされた、まことの神様があなたのそばにいてくださるということを、私たちは知っています。」これは主にある信仰者の真実な答えだと思いました。
 インターネットで知るにつけ、神は正しいのか?との言葉を発している牧師さえいるのです。それらの言葉が正しいか、正しくないかなどと言う気はありません。でも、キリスト者として、説教者として、まことの言葉はどこにあるかと考えます。二〇〇〇年間にわたり、多くの戦争、多くの災害、その中で命がけで語り続けた人々を思うのです。もうひとつぜひ紹介したいのは、今、一番読まれている、私どもも用いますハイデルベルク信仰問答を翻訳された、日本キリスト改革派教会、仙台教会、吉田隆先生の、大会議長としてのメッセージです。
「生も死も、すべては主の御手の中にあるとの信仰に堅く立ち続けることができますように、お祈りください。とりわけ甚大な被害をこうむった地にある諸教会のために、お祈りください。今この時も、何とかして一人でも多くの命を救おうと昼夜を分かたず懸命の努力を続けている人々のために(命が失われることは主の御心ではないが故に)お祈りください。そして、生き残ることを許された私たちが、この命をいよいよ主と隣人のために用いることができますように祈ってまいりましょう。」

《主は生きておられる》
 命がけでキリスト者が告げた、私どもの生き死にを超えたメッセージ。それが「主は生きておられる」であります。そしてそれはまた、今起きている災害の中でも告げられるメッセージです。
 婦人たちが、明け方早くに墓に行ったのは、十字架にかけられ、亡くなられ、墓におさめられたイエス様の葬りのためでした。香料を持って行ったのは、イエス様の遺体に香料を塗るため。前日が安息日で、それが禁じられていたからです。
しかし墓は空でした。婦人たちは途方に暮れたと記されています。その時、婦人たちに告げられた言葉が最初に挙げた天使の言葉だったのです。婦人たちは他の人々に知らせます。信じられない弟子たちもいました。墓へと走って行った弟子もいました。もうしばらくの時を、弟子たちは必要としたのです。
 私どもの国は大きな痛手を受けました。しかし「主は生きておられる」。私どもの悲しみ、私どもの悩み苦しみを超えて「主は生きておられる」。主ご自身が、死の苦しみと戦われた。悲しみ悩みと戦われた。主は生きておられ、私どもと共にいてくださるのであります。
 被災地において今この時礼拝が守られ、御言葉が語られ、祈りがささげられているのです。一人でも多くの命が守られることを。そして私どもに出来ることが神さまによって示されますように。
(四月二四日イースター聖餐礼拝説教)
posted by かたつむり at 21:24| きぼう14号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

14号/11月 引用した文章について

カトリック教会のテレビ番組から
『【ローマ共同】ローマ法王ベネディクト一六世は二二日に放送された国営イタリア放送協会(RAI)のカトリック教徒向けのテレビ番組で、東日本大震災に関する千葉市の七歳の少女の「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか」という質問に、「答えはないかもしれませんが、大切なのは神があなた方のそばにいるということです」と答えた。法王がテレビで一般の視聴者からの質問に答えるという初の試み。多数の応募の中から七人の質問者が選ばれ、そのうちの一人が日本人の少女だった。関係者によると、千葉市美浜区在住の松木エレナさん。父親がイタリア人で母親が日本人。エレナさんはビデオレターの中で「同じ年頃の子どもがたくさん亡くなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか、ポープ(英語で法王の意)、教えてください」と日本語で質問した。』

 女の子の質問
「私はとても怖かった。安全だと思っていた家が本当にすごく揺れて、私と同じ年頃の子供たちがたくさん亡くなりました。私は公園に行って遊べません。私は知りたいんです。どうして私はこんなに怖がらなくてはならないんでしょうか?どうして子供たちがこんなに悲しまなくてはならないのでしょうか?」

 教皇の答え
「私も同じ問いを持ちました。どうしてこんなことが?と。他の人たちが安らかに生活しているのに、どうしてあなたがこんなに苦しまなければならないのか?と。そして私たちにはその答えはわかりません。でもイエス様も何の罪も犯していないのに、あなたと同じように苦しまれたこと。イエス様において明らかにされた、まことの神様があなたのそばにいてくださるということを、私たちは知っています。」
(ビデオとガーディアン紙からの再構成)


日本キリスト改革派教会大会議長
仙台教会吉田隆先生のメッセージ
「同じ主にある教会でありながら、太平洋沿岸における甚大な津波被害の故に全く消息のわからない諸教会や兄弟姉妹たち、そして無数の犠牲者のことを思うにつけ、胸の裂ける思いです。
 未だ被害の全貌は不明です。不自由な生活を長期にわたり覚悟せねばなりません。かなり大きな余震の可能性もあります。原発事故による目に見えない二次的被害は計りしれません。
 「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編四六編三ー四節)という出来事が比喩ではなく事実として立ちはだかった時、さらには詩人には思いも及ばなかった放射能の拡散という異常事態に直面している時に、依然として「神はわたしたちの避けどころ…わたしたちは決して恐れない」(同四六・二ー三)と告白できるか。私たちはその信仰の試練に立たされています。
 生も死も、すべては主の御手の中にあるとの信仰に堅く立ち続けることができますように、お祈りください。とりわけ甚大な被害をこうむった地にある諸教会のために、お祈りください。今この時も、何とかして一人でも多くの命を救おうと昼夜を分かたず懸命の努力を続けている人々のために(命が失われることは主の御心ではないが故に)お祈りください。そして、生き残ることを許された私たちが、この命をいよいよ主と隣人のために用いることができますように祈ってまいりましょう。
 私たちの父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和が、皆様方と共にありますように。
主の二〇一一年三月一四日  大会議長 吉田隆(仙台教会牧師)」
posted by かたつむり at 21:22| きぼう14号 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする